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そぞろ散歩 竹橋界隈 橋三昧 その3 俎橋と寿人遊星??


前回


なんじャ…この奇妙な組み合わせ 

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向こうに見える欄干には「俎橋

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俎橋(まないたばし、爼橋)とは、


の橋日本橋川上流に架かり、東側の神田神保町三丁目と、

西側の九段北一丁目及び九段南一丁目を結ぶ。



難読として知られる橋銘は「」となっているが、
一般的には「」と表記されることが多い。
他に「俎板」や「魚板」などとも書かれた。
稀に「」と誤記される。

名前の由来は、橋が2枚の俎(まないた)を渡したような板橋
あったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連
名付けられたとする説がある

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西詰に地下鉄九段下駅が存在し、その先に九段坂が伸びる。

東詰には俎橋交差点があり、その向こうに神保町が続く

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西側には靖国神社北の丸公園日本武道館)、東側には

専修大学神田キャンパスや神田古書店街などが広がり、

観光名所に囲まれている。

周辺には九段会館など戦前からの建築物も残る。

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江戸時代初期の架橋と思われるが、詳しい年代は不明である。

江戸時代には東側には武家が広がり、西側は飯田町と称した

東側には現在のように橋を降りて直進する道路はなかったため、

橋は現在ほど往来が多くはなく、橋自体も小規模であった

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万治年間より1903年明治36年)までの期間、日本橋川

神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋め立てられて

堀留橋付近がその名の通り堀留で、俎橋が日本橋川の最も

上流に架かる橋であった。

俎橋と堀留の間の西岸には1664年寛文4年)より俎河岸が

存在し、物資の荷揚げが行われた

明治には武家地が廃されて東側にも神保町へ続く直進した

道路が設けられ、1904年明治37年)に東京市電が開通すると

俎橋は交通の要衝となった。

関東大震災後、震災復興再開発事業の一環として大正通り

(現・靖国通り)の拡幅が進められ、1929年昭和4年)俎橋も

鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられると、俎橋の交通

量は更に増加した


寿人遊星

山下恒雄  東京藝術大学教授

 寿人遊星とは、寿老人が宇宙を回遊して、

星と共にあまねく市民に長寿を授ける神のお姿である。

 その寿老人は、七福神の第一におかれる長命の神で、古来中国では
南極老人星といって、福寿をつかさどる星とされたが、宋・元時代
(日本では室町時代)から人格化されて偶像となり、画像・彫像となって
庶民の信仰を深める対象となり普及した。

形像は老人の姿で、

人間の寿命を記した巻物を先に結んだ杖をつき、

また長命の象徴の二千年を経たとされる黒鹿(玄鹿)を伴う

と百科事典に記されていて 広辞苑にも同様の記事があるそうな。

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ハレー彗星接近の年、モチーフとなったのは七福神の一つで、

星と関係の深い寿老人 

そのモニュメントの中には七十六年後の未来の街の想像、

発展を念じたタイムカプセルがつまっている。

千代田区九段下俎橋児童公園)

*この彫刻は、絵本「神田彷徨」((株)久保工務店発行)の売り

上げ金の一部によって創られ、千代田区に寄贈されたものです。

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この像は、俎板橋児童遊園 にあります 

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なんだか、、宇宙人のようにも見えてきますね