前回
マァ・・年末年始は、アチコチに呼び出されて散財するけど
地域を鑑みるには、いい機会になっているね
今回は、「神田」なので、駅周辺も楽しいのだが、
此間から気になっていた「日本橋小伝馬町」の散策
神田北乗物町の隣接した街並みで、歩いてもスグだ
2618坪(約8639㎡)周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされており、
南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた
大倉・安田の頭文字を取って名づけられたという
吉田松陰墓
「松陰二十一回猛士墓」と刻んだ墓碑が建っている。
9月25日(旧8月29日)、徳川慶喜ら一橋派が大量に処分された。
11月1日(旧10月7日)、橋本左内ら37人が死罪となった。
21日(旧10月27日)、吉田松陰らに罪状の申渡、23人が死罪・流罪となった。
23日(旧10月29日)に小塚原回向院に葬られた。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
1859年11月21日 | 29歳 | 吉田松陰、斬首 |
江戸時代の時の鐘は最初江戸城に置かれていた。その後、
焼失し、現在の時の鐘は1711年に作られた物
時の鐘は寺社の鐘と違い、公費で運営していたので、
時の鐘が聞こえる約四百町(初めは三百町ほど)の範囲から鐘撞き料
(町人は間口一間につき四文)を徴収していた
吉田松陰終焉の地
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
と刻まれた辞世碑がたっている
1677年 常磐橋門からこの地に移された。
江戸幕府最大の牢屋で、死刑や拷問もここで行われていた。
木造平屋に在牢者は200~400人くらいで、多いときは1000人を越えたという
1875年に市ヶ谷監獄に合併して取り壊されたが、
2600坪の敷地は無償にもかかわらず引き取り手がなく「牢屋ヶ原」と呼ばれていた
へぇ・・八百屋お七 もここに投獄されていたんだ
此の碑が、きっかけになりました
江戸開府のころ伝馬の役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となった。
1606年に浜町一帯の埋立てが完了した後に、現在地に移転した。
大伝馬町にはいると繊維会社のビルが多くなり横山町にはいると問屋街となり
江戸時代の名残がある。
『寛永江戸図』には「大伝馬三丁目」と記されているが、旅籠が並んでいたため
通称は通旅籠町〔とおりはたごちょう〕だった。南新道に面して池洲稲荷神社があり、日光例幣使の宿泊所になった当町の警護用の武具を収蔵する土蔵が境内に設けられていた。
大文字屋(大丸)
1738年に進出した京都伏見の呉服太物商、通称大丸
本町通りから大門通りまで間口39間(70m)の大店だった
【広重「大傅馬町こふく店」】 上棟式を終えた大工の「棟梁送り」の一行の左側に
大丸が描かれている。 切手と美術「名所江戸百景」
1910年末にこの店鋪と名古屋店を閉じ、京都、大阪、神戸で経営を続け、戦後、
東京駅八重洲口に出店した。 漱石ゆかりの地「大丸」
蔦屋耕書堂〔つたやこうしょどう〕
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地本問屋で主人は蔦屋重三郎。
山に蔦の印の箱看板が出ていて、蔦重〔つたじゅう〕と呼ばれていた。
モット訪ね歩いてみたかったが、
又にして神田に戻ります