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春の寸又峡から遠州二股ツーリング 其の② 清水の次郎長と静岡名物「おでん」をあの店で!

前回

2018.3.29
今回は、朝食から家内のロールパン 🍞
富士山本宮浅間大社 お宮横丁で、冨士宮焼きそば 
そして ランチは、静岡名物「おでん」を
昨年も寄らせていただいた・・あの店へ 🍢

動画編

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蒲原宿(かんばらしゅく、かんばらじゅく)は、東海道五十三次の15番目の宿場
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 風情が残る古い町並みに本陣公園広重美術館など歴史を感じる
施設が充実、桜海老シラスの漁業基地としても有名で駿河湾の幸などの特産品も魅力的

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  中世の頃できた宿といわれています
日本橋から16番目で、天保14年(1843 年)には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋32軒、宿内家数は160軒、人口は730人と小規模な宿場
記録によると東海道の宿場に常備する100人・100匹の負担が
重く、幕府に軽減を請願していたようです
北田、町屋原、今宿、寺尾、東倉沢、西倉沢、そして薩た峠旧東海道の様子が感じられる町並みが残ります
江戸時代末期、江戸城無血開城にゆかりのある望嶽亭藤屋
広重は海越しの富士山と難所の峠、帆掛け船が浮かぶ駿河湾を描いていますが、それと同じような風景が現在でも堪能できます 
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いざ、、薩埵峠へ!!
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清見寺(せいけんじ)は、静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院山号は巨鼇山(こごうさん)、正式には「巨鼇山 清見興国禅寺」(こごうさん せいけんこうこくぜんじ)と称する
鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している
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清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日1820年2月14日) - 明治26年(1893年6月12日
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次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ
人気を博する。虚像の部分は→清水次郎長伝の項
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今でも時々,聴くけど オモシロいねぇ 
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森石松というと30石船寿司食いねえ
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駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である
別名は府中城静岡城など
江戸時代には駿府藩駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた
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駿府城
静岡県 別名 城郭構造 天守構造 築城主 築城年 主な改修者 主な城主 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置 地図
巽櫓(復元)
巽櫓(復元)
府中城、静岡城
輪郭式平城
不明(1589年築)
慶長1期(1607年再)
慶長2期(7階・1610年再)
(いずれも非現存)
徳川家康
1585年天正13年)
徳川家康
内藤氏(松平氏)
1869年明治2年
石垣、堀
なし
巽櫓、東御門、坤櫓
北緯34度58分45秒
東経138度23分0秒
駿府城の航空写真(1988年撮影)


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昨年版

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静岡おでん

静岡市を中心に富士川から大井川までの県中部で主に食べられてきた。肉や練り物から出ただしとしょうゆなどが味のベース。地元観光協会や関係団体によると、黒はんぺんが入っている▽串に刺さっている▽だし粉と青のりをふりかけて食べる▽スープが黒い――といった特徴がある

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  此れで海側とは、分かれて

    どんどんと山へ向かいます  



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