前回
2017.2.26
13代続く老舗に代々引き継がれた米麹だけの甘さを味わった
そして忠臣蔵の秘話の真実が、明らかに
動画編
タイムライン
箱根八里
箱根路は、小田原から箱根峠までの東坂が4里10町(17km)、
箱根峠から三島までの西坂が3里20町(14km)、
合せて約8里(31km)あるところから箱根八里と呼ばれる
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・・箱根越えは、8里(32Km) 1日かかったそうな
箱根八里には急坂を越えるため、「間の村(あいのむら)」にある茶屋以外
にも坂の上下などに人馬が一服できる立場茶屋が設置されていた。
江戸時代後期の箱根東坂には、9ヵ所に13棟の立場小屋があったが、
現在は此処のみ
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仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら)
大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、
俳諧にも事績を残した・・
大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が
「馬に乗れ」とからんできた。忠雄は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、
その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに忠雄がいたことを知った団蔵は
己を恥じて出家の上、忠雄を弔ったという。
大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。
しかし、これらは後世の創作といわれている
こんな所にも忠臣蔵の逸話が、あったんですよ
53の宿駅(しゅくえき)を設けた。
継飛脚は幕府の公文書を無料でリレー運送するもので、
一人が黒漆塗りの御状箱をかつぎ、他の一人が肩代わりとして
夜は高張提灯を持って500kmを二日で走った
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