前回
2016.10.22
打ち合わせを兼ねてプチツー
動画編
タイムライン
関越道に入るとすぐに事故渋滞
・・・どうも いつもの「天玉そば」がいい
踏み切り待ちも結構楽しい
本日の散策 一発目
上泉城は、桃ノ木川と藤沢川の合流地点に築かれた城で、
赤城南麓地帯を領有していた大胡氏の一族「上泉氏」の居城
高弟と共に諸国流浪の旅に出た。
箕輪長野氏家臣時代
『撃剣叢談』によると、1555年(天文24年)北条氏康の大胡城攻撃に会い開城したという。その後、長野業正とその子長野業盛に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらったという。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にある。
剣術流派の稽古に用いられている
穀物倉庫らしく通風を考慮した造りだ。
総社古墳群を構成する1基。7世紀末築造の末期古墳
5世紀後半から7世紀にかけて古い方から順に、
藩主であった秋元氏の墓地(市指定史跡)がある。
秋元氏は近隣の農民の為、天狗岩用水を引くことに尽力したとのことで、
秋元氏は近隣の農民の為、天狗岩用水を引くことに尽力したとのことで、
人々には慕われていたようである。
この天狗岩用水は古墳群の中を現在も流れている
この天狗岩用水は古墳群の中を現在も流れている
(とよきいりひこのみこと)の子孫で、後に上毛野氏、下毛野氏に分かれた
高度の技術を駆使した切石切組積みの両袖型横穴式石室
中は、羨道・前室・玄室のこの頃の古墳としては一般的な3部屋構造
全長は12.4mで、
1300年も前にまるで近世城郭の石垣みたいにきれいに石を積んでいます。
資料館内には、様々な出土品が、展示されている
シニアさん達が、丁寧に館内説明をしてくれている
此方、JRの踏切
やはり蕎麦屋さんが、多いね
本来は、工事中で一般車の通行は、規制されている
(史跡面積=約19ヘクタール)におよぶ西上野(にしこうずけ)の中核的な城郭
北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、
さらにこれを核にして多数の曲輪を線対称状に配置した
曲輪を区画しているのは、本丸周囲を巡る最大幅40メートル、深さ10メートルに代表されるような広大な堀が特徴だ
西暦1500年前後に長野氏が築城し、その後4代にわたっての本拠でした
永禄9年(1566)に武田信玄に落とされるとその後は、武田氏(1566~1582年)、
織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と次々と
主(あるじ)を変えましたが、その度に各大名の有力家臣が城主だった
12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、
特に堀の規模と 虎口(こぐち)(出入り口)周囲の残りのよさが特徴であり、そうした特徴を活かした史跡の環境整備・遺構整備に平成23年度より着手しています
高速は、激混みらしいので、いつもの様に下道で、帰ることに
やはりアチコチ寄り道しながら・・
梨・柿・ミカン+焼き芋
暗くなっても土曜日なので、賑やかだね
流石に浴衣ではないだろうけど着物姿が目立つね
18:00 ファミレスで最後に打ち合わせ
山は、結構寒くなる時期だが、楽しみなロンツーです