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動画編
平成最後のツーリング 西日本2850Km Ⅴ 『桜まつり』 国宝 彦根城 中山道 鳥居本宿 旧道巡り
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大津市から長浜市木之本町まで、琵琶湖東岸を南北に走る道は、さざなみ街道の愛称で親しまれ、琵琶湖の雄大な自然や近江米産地の田園風景など、四季のさまざまな風情が魅力的だ
1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した 🌸
琵琶湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であった
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した
天守が国宝指定された5城のうちの一つである
壬申の乱(672年(白鳳元年))、姉川の戦い(1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など古来多くの合戦がこの周辺で行われた
戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ重臣の石田三成と井伊直政を、この地に配置した
明治11年10月に明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという。その際、天皇に保存を奏上したのは、巡幸に随行していた大隈重信という説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)という説とがある
彦根城は戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られていた。敵が中に攻め入っても、階段を上がって敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。梯子のような階段は、ただ上の小さな掛かりが掛かっているだけで、敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とせる構造
彦根城内、彦根東高校の南西にある京橋は、一千石以上の武士が居住していた第二郭(内曲輪)と中級以下の武士や商人、職人が居住していた第三郭(内町)をつなぐ橋でした
「OLD NEW TOWN」をテーマに、本町通りに沿って立ち並ぶ街並みは、商人屋敷の良さを生かした江戸時代感覚の新しい建物に建て替えられています
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東海道とともに江戸と京都を結ぶ重要な街道
近江の中山道を美濃との境からたどると、伊吹もぐさで有名な柏原宿、
澄んだ水のながれる醒井宿、山あいの番場宿
北国街道との分岐点には鳥居本宿、多賀大社の参拝口として栄えた高宮宿、
近江商人の香りが残る愛知川宿、武佐宿、比叡山の東を守る守山宿
戦国時代の重要な史跡が残る
明治天皇鳥居本御小休所・家屋は滋賀県指定文化財・国指定重要文化財
赤玉神教丸の歴史