前回
2016.11.5
今回の旅、最後のスポット・野麦峠
此れも日本の原風景・女工哀史 

美しい紅葉の山並みと
多くの思い出土産を持ち帰ることが出来ました 

動画編
タイムライン




道筋であった。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では
1尾の値段が米1斗であるものが、峠を越えると米1俵になると言われた


土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる。
凶作の時にはこの実を採って団子にし、飢えをしのいだそうな 









小説によれば、就労先で妊娠し、厳しい峠越えの最中に子どもを流産する
工女も少なくなかった。故に野産み峠となり、野麦峠となった、とある


「工女衆がよく落ちた谷はこの辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それでやっと救いあげたこともございました。峠の地蔵様が笹原の中に立っているのはその付近で、あの谷はどれだけ多くの工女の命をのんだか知れません。わしらは先の人に離れないようにヒモで体を結び合わせ、峠の地蔵様に念仏をとなえながら一足一足命がけでついていったのでございます」(明治15年生)

野麦の雪は赤く染まった (ああ野麦峠より抜粋)
「野麦峠の雪は赤く染まった」
その女の悲鳴が野麦の谷々に響きわたり、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた。パンツもなかった明治のこと、腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれた。
野麦を越えるときは、この辺の衆はみんな水さかずきをして出たもんです。
何しろ野麦の雪が赤く染まったという話を年寄りからよく聞いた。


映画では、飛騨からの出稼ぎ女工の悲惨な面を強調して描かれているが、
原作では、工女の賃金にばらつきがあったことや、
「我が家は貧乏だったので工女に行けなかった」、
「実家の農家で働いていた方がきつかった」
といった複雑な背景も描かれている。
糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及している 


「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、
まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた・

























思い出記録を楽しんでます 
