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晩秋の甲州路と中山道 宿場巡りツーリング 第五幕  長野県下 望月宿から軽井沢宿まで旧中山道のんびり旅

前回

2017.11.5~6
中山道六十九次の宿場の間にある「間の宿
日本の街道にも良く見られた「日本の心
旅人への労をネギライうおもてなしは、十分に推察できる
今回のルートも暴れん坊の千曲川の西と東の宿場や
善光寺参りへの北国街道との交差点・追分宿
最大の難所碓氷峠の西の入り口の沓掛軽井沢宿 


動画編

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平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や、その望月氏朝廷幕府に献上していたの名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から、「望月」の名が付いたとも言われる。なお、望月氏の由来は、望月の牧からであり、望月の牧の由来は、一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していた為である
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千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里もないが、川止めになったときの待機地として、また千曲川沿いの米の集散地として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である
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天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、塩名田宿の宿内家数は116軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠7軒で宿内人口は574人であった
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正縁寺の先で中山道は二車線道路から反れて細い坂道を下ります、下りきった辺りに「塩名田宿お滝通り」の碑が設けられています、此処は昔「瀧大明神社」の境内でケヤキの大木が立ちその下から大量の湧水が流れ出ていたと云います 
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その湧水の流れていた所に十九夜塔が安置され休茶屋なども建っていました、またその湧水を利用して湯屋の養殖なども行っていました
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江戸期はじめの頃は渡場には河石を橋桁とする渡橋が架けられていましたが水害により橋が流され舟渡となりました、その後明治に入り舟橋会社が設立され舟を繋いでその上に橋を架ける舟橋が架けられます、幾度の水害を考慮して直ぐに造り直せる舟橋としたのです 
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お瀧通から千曲川河岸の町「河原宿」へ入ります、湧水の休茶屋址に木造三階建の角屋が建っています、国道が高台に開通すると川原宿の旅館などは国道からの出入りを考慮して三階建に改築したと云います 
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塩名田宿が最大に活気を帯びたのは江戸期よりも明治中頃で二人の料理人が
八幡宿より移転して角屋を料亭に新装改築してからでした、それ以後塩名田宿川魚料理で一躍有名に成りました、もともと交通の要所であったので他の
地域から開業移転する業者も多く志賀銀行や製糸工場などもこの頃に営業をはじめました 

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本陣は存在したが、大破し、その後も再建できず、本陣、脇本陣の代わりとして
龍雲寺、西念寺、法華堂などの古刹、割元邸(割本邸)が利用された
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参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、
小田井宿姫君や側女たちの宿にあてられることが多く姫の宿」とも呼ばれた 

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追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で
宿内人口は712人であった。また御影陣屋支配下の貫目改所が設置された
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史跡・みどころは多い 
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分去れの碑枡形の茶屋油屋追分一里塚日本橋から40番目)浅間神社 泉洞寺堀辰雄文学記念館軽井沢町追分宿郷土館追分コロニー シャーロックホームズ像
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堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館は
この油屋がモデルである 



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毎年、旧車によるラリーを開催しているそうな 
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沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人であった
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長倉神社 - 境内の裏手に長谷川伸の芝居や映画『沓掛時次郎 遊侠一匹』などで有名な「沓掛時次郎の碑」千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」がある 


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軽井沢と呼ばれる場所とは2~3キロ離れている旧軽井沢あたり
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本陣脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、
数百人の飯盛女が働いていたという 宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる
二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所 

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信越本線横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠区間)には国鉄の最急勾配
(66.7が存在し、これを越えるためにこの区間を通過する列車はすべて、当駅で補助機関車を連結し、横川駅(群馬県)まで走行していた 
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かつて官営鉄道横川線(現、信越本線)の横川駅前から、
碓氷峠を越えた直江津(現、しなの鉄道線)の軽井沢駅との間を
連絡していた馬車鉄道である 
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草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても
交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道スイス登山鉄道に着想を得て、草津浅間山高原地への輸送を目的に着工されることとなった
大正期の1914年 - 1926年に順次路線を開通させた 

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