今夜の宿 白川郷の「伊三郎」には、時間があるので、
「五箇山」見学に出かける旨伝えて ソロソロ 夕刻迫る頃
「相倉合掌造り集落」へ急いで、向かいました
動画編
タイムライン
15:00
R156 飛越峡合掌ライン・・反対方向には、白川郷の合掌集落だが、
昭和三十三年(1958)五月十四日に国指定重要文化財に指定
岩瀬家の総体は、間口14.5間(26.4m)・奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)もあり、大黒柱などは一尺(0.3m)角の欅を、また、24畳敷の出居の敷板にも全て欅材が使われ、しかも釘を一切使わず、縄とねそで結び上げて造られています
囲炉裏では合掌造りについてのお話が聞け、天井裏へ登ることもできます
下階の炉から暖をとり、風通しをよくする為上階の床板は透かしの目皿
一階(大きな家では中2階も使用)で寝起きしていたことは同様の形態
合掌造 岩瀬家の画像:写真集
塩硝釜など 加賀100万石前田藩主が他藩に秘して等値で
塩硝製造を命じた際使用したものなどが展示されている
両手を合わせて合掌礼拝する形からであろうが、
屋根部の木材は落葉樹自然木を、丸太のまま、
または縦に割り裂いたのを用いる
これがすべて農民の手によって発達進歩した経過を考慮すると、
全く地域に根ざし地域の特徴を生かした構造物だ
一階部分の軸部に他地域との違いがあり、
同じ集落内でも多少の相違はあるそうな
建築儀礼や生産生業、暮し方など様々な村風習など集落共同社会の中での
合掌造りは、人間の暮らしと深く係ってくる現れなんだね
昭和初期の自動車道開通後は往来筋からはずれ、自動車道の閉鎖される冬期だけの交通路になった。それも昭和45年(1970)にかの有名な峠雪道を往復した郵便逓送隊の廃止となり、ついに交通路線に位置しなくなってしまった。
・・なんともいい風景だなぁ
地形は、北西から南東へかけてゆるやかな傾斜をつくり、標高380m~420mの段状平坦地の集落。後背の山地は急に切り立った岩壁になっていて、
古代の大きな地滑りによる段丘台地、地表の所々に岩石が頭を覗かせている
現在の戸数や人口は昔に比べると極めて少ない。
養蚕製糸・製紙・製炭の主要産業の廃退と高度成長期の都市部への人口流出による過疎化現象だが、近年は道路網が整備され観光産業の発展で、
相倉集落を訪れる観光客が多くなり活気が甦ってきたそうな・・
http://www.murakamike.jp/image/history/title_kayaku.gif
塩硝といわれる火薬原料の生産地として加賀藩の
重要な役割を担っていたのが五箇山である。
藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、
幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山は、
豊富な塩硝を製造するための好条件であった。
300年以上にわたって続いた塩硝製造は、水田のない土地柄ゆえに
五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに
全国随一であったと云われてる。
重要な役割を担っていたのが五箇山である。
藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、
幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山は、
豊富な塩硝を製造するための好条件であった。
300年以上にわたって続いた塩硝製造は、水田のない土地柄ゆえに
五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに
全国随一であったと云われてる。