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晩秋の甲州路と中山道 宿場巡りツーリング 第三幕 岡本太郎も絶賛の石仏 和田宿そば師の絶品蕎麦 ^^!

前回


2017.11.5
信濃国一之宮 諏訪大社下社春宮と川を挟んで鎮座している 
 何とも不可解な石像が、「万治の石仏
  あの岡本太郎レベルではないと解らないようだね 
中山道一の難所を控えた和田宿にある
 拘りの蕎麦師 徳田偉そば技 


動画編


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長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身の小説家新田次郎万治の石仏を賞賛しており、新田は万治の石仏イースター島の石人の頭部が日本へもたらされたとする大胆な想定を行い、この想定を基に
小説「万治の石仏」を書いている 
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この石仏は自然石で石質は安山岩でつくられています

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元治元年(1864)11月20日水戸浪人(天狗塔)の総勢千余名が、和田峠で、待受けた松本・高島藩士と争い、多数の死傷を出した。それを慰霊する塚
塚の周りは多数の桜の木があり、開花時には見事だそうだ 
筑摩山地を越える峠の一つ
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中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経る信濃川水系で水は日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぐ

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国道142号に昇格してからの和田峠は、対向2車線を確保できない狭隘ぶりから、年々増加する自動車交通を捌ききれなくなったため、代替路として大きくルートを変え、低い標高の新和田トンネルで貫通する

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和田峠の戦い
1864年12月18日元治元年11月20日)、和田宿から下諏訪宿へ向かって峠を通過した水戸浪士天狗党高島藩松本藩連合軍が交戦し天狗党が勝利した

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日本橋から50番目の一里塚

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尾根道のビーナスライン旧霧ヶ峰有料道路中山道と交わるかたちで通っており、旧道のトンネルの長和側出口付近で接続されている 
ビーナスラインが有料だった頃は料金所が設置されていた 

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冬季の降雪も多く、中山道最大の難所 このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていた これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している

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中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、平均すると2程度の間隔で宿場町が置かれていたが、この和田峠は険しい山の中にあり、
峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
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文久元(1861)年3月 大火で 大半を焼失したが  
既に 皇女・和宮の 宿泊が決まって
いたため  慌ただしく 昼夜兼行で再建復旧につとめ 
無事迎えることができた 

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三種盛」手前の黄色っぽいのが「韃靼蕎麦(だったんそば)」
中ほどの白いものが「更科蕎麦奥が「田舎蕎

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さぁ・次は、長久保宿へ 


次回