日本橋にあった江戸時代の独立牢獄  吉田松陰や八百屋お七も投獄されていた伝馬町牢屋敷  江戸伝馬町処刑所跡 散歩 ^^!   ブログ

前回
 
マァ・・年末年始は、アチコチに呼び出されて散財するけど
      地域を鑑みるには、いい機会になっているね 
 
今回は、「神田」なので、駅周辺も楽しいのだが、
    此間から気になっていた日本橋小伝馬町の散策 
 
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神田北乗物町の隣接した街並みで、歩いてもスグだ
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伝馬〔てんま〕
馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度戦国時代には幕府領主の公用に供していたが、江戸時代には民間の輸送にも用いた 
 
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伝馬町牢屋は、かつて江戸に存在した囚人などを収容した施設で、
現在は東京都中央区十思公園になっている
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江戸時代刑法には現在の懲役禁固に類する処罰が原則として存在せず現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する
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高野長英吉田松陰らも収容されていた 
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常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。
それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。
明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された 
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2618(約8639)周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされており、
南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた
 
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安楽寺

伝馬町牢屋敷で刑死した人や、安政の大獄で処刑された志士の慰霊のため、1875年に建立された。 境内には刑死者を弔うための延命地蔵が祀られている
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大倉・安田の頭文字を取って名づけられたという 
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十恩〔じっし〕公園十恩小学校安楽寺身延別院村雲別院などになっている時の鐘牢屋跡吉田松陰終焉の地の由来を記した
「江戸三縁史跡」の説明板 小伝馬町交差点伝馬町三大遺構の説明板がある
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吉田松陰

「松陰二十一回猛士墓」と刻んだ墓碑が建っている。  
安政の大獄 大老井伊直弼による弾圧が1858年に開始された。 安政の大獄(1858年)
9月25日(旧8月29日)、徳川慶喜一橋派が大量に処分された。               謹慎(1860年)
11月1日(旧10月7日)、橋本左内ら37人が死罪となった。             街道 Now and Then「小塚原回向院橋本左内墓」
21日(旧10月27日)、吉田松陰らに罪状の申渡、23人が死罪・流罪となった。           
松陰は江戸・小伝馬町の牢屋の処刑場で死刑に処された。      
23日(旧10月29日)に小塚原回向院に葬られた。             街道 Now and Then「小塚原回向院松田松陰墓」
 
 
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「かくすれば かくなるものと知りながら 
                                           やむにやまれぬ大和魂
        1859年11月21日 29歳 吉田松陰、斬首
 
日本橋石町にあった「時の鐘」を移転し保存している
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江戸時代の時の鐘は最初江戸城に置かれていた。その後、
徳川秀忠の頃、1626年に時の鐘を辻源七が本石町三丁目(今の日本橋本町四丁目)に移し、鐘楼堂を建てた。その後、1710年に起こった火災鐘楼などが焼失し、現在の時の鐘は1711年に作られた物 
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時の鐘は寺社の鐘と違い、公費で運営していたので、
時の鐘が聞こえる約四百町(初めは三百町ほど)の範囲から鐘撞き料
町人は間口一間につき四文)を徴収していた 
 
 
吉田松陰終焉の地
  「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
 と刻まれた辞世碑がたっている 
 
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1677年 常磐橋門からこの地に移された。
江戸幕府最大の牢屋で、死刑拷問もここで行われていた。
牢屋敷は江戸奉行の支配下にあり、現在の拘置所にあたる。
木造平屋に在牢者は200~400人くらいで、多いときは1000人を越えたという 
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1875年市ヶ谷監獄に合併して取り壊されたが、
2600坪の敷地は無償にもかかわらず引き取り手がなく「牢屋ヶ原」と呼ばれていた その後、大倉喜八郎安田善次郎に払い下げられた
 
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へぇ・・八百屋お七 もここに投獄されていたんだ 
 
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此の碑が、きっかけになりました 
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江戸開府のころ伝馬の役所が江戸城呉服橋門内にあったために町名となった。
1606年に浜町一帯の埋立てが完了した後に、現在地に移転した。
当時は西から東へ大伝馬町1~2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていた。細長い町で、中央を南北に人形町りが貫通する 
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大伝馬町にはいると繊維会社のビルが多くなり横山町にはいると問屋街となり江戸時代の名残がある。
『寛永江戸図』には「大伝馬三丁目」と記されているが、旅籠が並んでいたため通称は通旅籠町〔とおりはたごちょう〕だった。
南新道に面して池洲稲荷神社があり、日光例幣使の宿泊所になった当町の警護用の武具を収蔵する土蔵が境内に設けられていた。

大文字屋(大丸)

1738年に進出した京都伏見呉服太物商、通称大丸
本町通りから大門通りまで間口39間(70m)の大店だった
広重「大傅馬町こふく店」】 上棟式を終えた大工の「棟梁送り」の一行の左側に大丸が描かれている。  切手と美術「名所江戸百景」
1910年末にこの店鋪と名古屋店を閉じ、京都、大阪、神戸で経営を続け、戦後、東京駅八重洲口に出店した。  漱石ゆかりの地「大丸」
 

蔦屋耕書堂〔つたやこうしょどう〕

ビードロを吹く娘 奴江戸兵衛
地本問屋で主人は蔦屋重三郎
山に蔦の印の箱看板が出ていて、蔦重〔つたじゅう〕と呼ばれていた。
1783年に移転してきた。 山東京伝、馬琴、一九などの作家や絵師をかかえ浮世絵を出版し、 歌麿写楽を見いだした。
1802年に出版された北斎『絵本東都遊』に店先の様子が描かれている。
 
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       モット訪ね歩いてみたかったが、
               又にして神田に戻ります