前回
マァ・・年末年始は、アチコチに呼び出されて散財するけど
地域を鑑みるには、いい機会になっているね
今回は、「神田」なので、駅周辺も楽しいのだが、
此間から気になっていた「日本橋小伝馬町」の散策
神田北乗物町の隣接した街並みで、歩いてもスグだ
馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度。戦国時代には幕府領主の公用に供していたが、江戸時代には民間の輸送にも用いた
南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた
大倉・安田の頭文字を取って名づけられたという
吉田松陰墓
「松陰二十一回猛士墓」と刻んだ墓碑が建っている。
安政の大獄 大老井伊直弼による弾圧が1858年に開始された。 安政の大獄(1858年)9月25日(旧8月29日)、徳川慶喜ら一橋派が大量に処分された。 謹慎(1860年)
11月1日(旧10月7日)、橋本左内ら37人が死罪となった。 街道 Now and Then「小塚原回向院橋本左内墓」
21日(旧10月27日)、吉田松陰らに罪状の申渡、23人が死罪・流罪となった。
「かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂」
1859年11月21日 | 29歳 | 吉田松陰、斬首 |
江戸時代の時の鐘は最初江戸城に置かれていた。その後、
吉田松陰終焉の地
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
と刻まれた辞世碑がたっている
江戸幕府最大の牢屋で、死刑や拷問もここで行われていた。
牢屋敷は江戸奉行の支配下にあり、現在の拘置所にあたる。
木造平屋に在牢者は200~400人くらいで、多いときは1000人を越えたという
1875年に市ヶ谷監獄に合併して取り壊されたが、
此の碑が、きっかけになりました
江戸開府のころ伝馬の役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となった。
1606年に浜町一帯の埋立てが完了した後に、現在地に移転した。
当時は西から東へ大伝馬町1~2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていた。細長い町で、中央を南北に人形町通りが貫通する
大伝馬町にはいると繊維会社のビルが多くなり横山町にはいると問屋街となり江戸時代の名残がある。
『寛永江戸図』には「大伝馬三丁目」と記されているが、旅籠が並んでいたため通称は通旅籠町〔とおりはたごちょう〕だった。
南新道に面して池洲稲荷神社があり、日光例幣使の宿泊所になった当町の警護用の武具を収蔵する土蔵が境内に設けられていた。
大文字屋(大丸)
1738年に進出した京都伏見の呉服太物商、通称大丸
本町通りから大門通りまで間口39間(70m)の大店だった
蔦屋耕書堂〔つたやこうしょどう〕
地本問屋で主人は蔦屋重三郎。
山に蔦の印の箱看板が出ていて、蔦重〔つたじゅう〕と呼ばれていた。
モット訪ね歩いてみたかったが、
又にして神田に戻ります