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一生の友となるかもしれませんね! どうぞお付き合いくださいね ^^!

早春の箱根・伊豆ツー ③ 箱根峠から箱根十城 山中城址 「北条流堀障子」「畝堀」「障子堀」秘話 修善寺駅で  鯵寿司ウマウマ ^^!

前回

2017.2.26
さてさて・・「麹のみの甘酒」の甘さに舌鼓を打ってから 
 芦ノ湖 杉並木を抜けて箱根峠

箱根十城の要山中城址」驚きの見事な発掘した堀 
 こりゃあ様々なTV番組で取り上げる筈だわ

修善寺駅前のアジ寿司弁当が、うまうま 

動画編


タイムライン
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旧街道は、割合と直線的上り坂ですね 
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お玉の伝説

江戸時代1702年元禄15年)、お玉という10代の少女江戸奉公先の家から
伊豆の実家に逃げ帰ろうとしたが、関所手形を持っていなかったため箱根関を通ることができなかった。そこで、関を通らずに周囲の山にあった柵を通って関所破をしようとしたが、関所の番人に捕まり2か月後処刑された。その後、「那津奈可池」(なずながいけ、お玉ヶ池の旧名)でお玉の首を洗ったという伝説ができたことから
「お玉ヶ池」と呼ばれるようになった。
また、お玉という女芸人が身を投げたからという伝説もあるそうな 
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ノンさんは、今年も応援に来たとのこと 
小生は、以前は出かけて来たけど近頃は、もっぱらTV観ですw 
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さて・・三島方面へ 
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旧東海道にはやはり古道が沿う 
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話題の三島スカイウォーク側からが、順路だが、
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北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、
東海道を取り込む形で造られていた 
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箱根の山地一帯には戦国時代、無数の城がつくられた
いずれも小田原城攻防にかかわるもので、中にはにわか仕立に近いものも
あり箱根の周辺部を含めて全部で11を数え、
内1つが攻めの城残りの10の城はすべて守りの城 
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北条氏滅亡と共に廃城となった
北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される城 
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箱根の中央火口丘の中では鷹ノ巣山頂に「鷹ノ巣城」、
    湯坂山頂に「湯坂城」駒ヶ岳西側山麓に「進士城」
北側の外輪山では塔之峰山頂に「塔之峰城」明神ケ岳中腹に「宮城野城」
さらに箱根から少し外れるが足柄峠東側麓に「浜居場城」、谷峨に「新庄城」
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堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀障子堀の構造が明確に把握できるように整備されている 
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各曲輪の間は空堀などを巧みに配し防御性を高めていたが、、
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北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、
  山中城は改修し防備を固めることになるが、果たして・・
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日本100名城(40番)

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駿豆線(すんずせん)は、静岡県三島市三島駅から伊豆市修善寺駅
までとを結ぶ伊豆箱根鉄道鉄道路線
地元では社名をもじっていずっぱこと呼ぶことも多い 
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路線名の駿豆とは駿河国伊豆国を意味するが、これはかつて同線が駿河国に属する沼津市伊豆国に属する三島市の間に軌道線路面電車、1963年廃止)を運行していた駿豆電気鉄道の路線だったことから来ている 

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1983年(昭和58年)4月27日修善寺駅新駅舎完成 
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当初は湯治客の便を図り、伊豆中部の大仁東海道本線を結ぶ目的で建設
初めの計画では沼津を起点とする予定であったが、東海道本線敷設時に駅が設けられず衰退が著しかった宿場三島の者が土地寄贈を行うなど積極的に誘致を行い、現在の下土狩駅の所に新しく(初代)三島駅を設けた上で、
ここを起点とすることになった イメージ 34
1898年に開業し、1924年には修禅寺修善寺温泉のある修善寺町
(今の伊豆市)まで延伸されている
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逃げるは恥だが役に立つ
2016年に放送されたTBSテレビドラマ。第6話で津崎とみくりの新婚旅行
ラブライブ!サンシャイン!!
HAPPY PARTY TRAIN」のアニメーションPVで登場
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大ぶりな切り身で、中々の歯ごたえ いいお味(あじ
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 チョイト奥様にお話を伺うと ご夫婦でツーリングを沢山したいとか・

  どうも・・ご馳走様でした 

冬が来る前に 飛越地方合掌造集落 飛騨高山・ 白川郷・五箇山 紅葉ツーリング ⑪ 富山県 五箇山:合掌の里 菅沼・相倉:合掌造り集落 イイねぇ ^^! ブログ&動画

前回
 
2016.11.4
今夜の宿 白川郷の「伊三郎」には、時間があるので、
五箇山」見学に出かける旨伝えて ソロソロ 夕刻迫る頃 
相倉合掌造り集落」へ急いで、向かいました 
 
動画編
 
タイムライン
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15:00
R156 飛越峡合掌ライン・・反対方向には、白川郷の合掌集落だが、
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昭和三十三年(1958)五月十四日に国指定重要文化財に指定
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岩瀬家の総体は、間口14.5間(26.4m)・奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)もあり、大黒柱などは一尺(0.3m)角のを、また、24畳敷の出居の敷板にも全て欅材が使われ、しかも釘を一切使わず縄とねそで結び上げて造られています
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岩瀬家は「塩硝役宅」とされ、五箇山で作った塩硝を上納する役目を果たしていました。加賀の役人の宿舎にもなっていたので、居間は書院造りとなっており、材質にはケヤキを使用することを許されていました
囲炉裏では合掌造りについてのお話が聞け、天井裏へ登ることもできます 
 
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下階の炉から暖をとり、風通しをよくする為上階の床板は透かしの目皿 
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加賀藩塩硝を取りまとめ納入する上煮役の藤井長右エ門が、
 天領飛騨白川郷へ、加賀百万石の威光を示した 
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白川郷とともに、大家族制度の地方として有名、この家族の中に一部の使用人が含まれていたことは白川郷と異りますが居住者はすべて
一階(大きな家では中2階も使用)で寝起きしていたことは同様の形態 
 
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塩硝釜など 加賀100万前田藩主他藩に秘して等値で
 塩硝製造を命じた際使用したものなどが展示されている 
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両手を合わせて合掌礼拝する形からであろうが、
 熱心な真宗信仰地帯らしい命名 
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屋根部の木材は落葉樹自然木を、丸太のまま
  または縦に割り裂いたのを用いる 
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これがすべて農民の手によって発達進歩した経過を考慮すると、
 全く地域に根ざし地域の特徴を生かした構造物 
イメージ 27
一階部分の軸部他地域との違いがあり、
  同じ集落内でも多少の相違はあるそうな 
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建築儀礼生産生業暮し方など様々な村風習など集落共同社会の中での
合掌造りは、人間の暮らしと深く係ってくる現れなんだね 
イメージ 29
昭和初期の自動車道開通後は往来筋からはずれ、自動車道の閉鎖される冬期だけの交通路になった。それも昭和45年(1970)にかの有名な峠雪道を往復した郵便逓送隊の廃止となり、ついに交通路線に位置しなくなってしまった。
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・・なんともいい風景だなぁ 
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地形は、北西から南東へかけてゆるやかな傾斜をつくり、標高380m~420mの段状平坦地の集落。後背の山地は急に切り立った岩壁になっていて、
古代の大きな地滑りによる段丘台地、地表の所々に岩石が頭を覗かせている
イメージ 32
現在の戸数や人口は昔に比べると極めて少ない。
養蚕製糸・製紙・製炭の主要産業の廃退と高度成長期の都市部への人口流出による過疎化現象だが、近年は道路網が整備され観光産業の発展で、
相倉集落を訪れる観光客が多くなり活気が甦ってきたそうな・・
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天正年間に建設されたと伝えられており、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様子を示すなど、多くの古風、古式の遺構
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火薬製造

塩硝といわれる火薬原料の生産地として加賀藩
重要な役割を担っていたのが五箇山である。
藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、
幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山は、
豊富な塩硝を製造するための好条件であった。
300年以上にわたって続いた塩硝製造は、水田のない土地柄ゆえに
五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに
全国随一であったと云われてる
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冬が来る前に 飛越地方合掌造集落 飛騨高山・白川郷・五箇山 紅葉ツーリング ⑪ 富山県 五箇山:合掌の里 菅沼・相倉:合掌造り集落 イイねぇ ^^!

前回

2016.11.4
今夜の宿 白川郷の「伊三郎」には、時間があるので、
五箇山」見学に出かける旨伝えて ソロソロ 夕刻迫る頃 
相倉合掌造り集落」へ急いで、向かいました 

動画編

タイムライン
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15:00
R156 飛越峡合掌ライン・・反対方向には、白川郷の合掌集落だが、
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昭和三十三年(1958)五月十四日に国指定重要文化財に指定
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岩瀬家の総体は、間口14.5間(26.4m)・奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)もあり、大黒柱などは一尺(0.3m)角のを、また、24畳敷の出居の敷板にも全て欅材が使われ、しかも釘を一切使わず縄とねそで結び上げて造られています
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岩瀬家は「塩硝役宅」とされ、五箇山で作った塩硝を上納する役目を果たしていました。加賀の役人の宿舎にもなっていたので、居間は書院造りとなっており、材質にはケヤキを使用することを許されていました
囲炉裏では合掌造りについてのお話が聞け、天井裏へ登ることもできます 

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下階の炉から暖をとり、風通しをよくする為上階の床板は透かしの目皿 
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加賀藩塩硝を取りまとめ納入する上煮役の藤井長右エ門が、
 天領飛騨白川郷へ、加賀百万石の威光を示した 
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白川郷とともに、大家族制度の地方として有名、この家族の中に一部の使用人が含まれていたことは白川郷と異りますが居住者はすべて
一階(大きな家では中2階も使用)で寝起きしていたことは同様の形態 

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塩硝釜など 加賀100万前田藩主他藩に秘して等値で
 塩硝製造を命じた際使用したものなどが展示されている 
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両手を合わせて合掌礼拝する形からであろうが、
 熱心な真宗信仰地帯らしい命名 
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屋根部の木材は落葉樹自然木を、丸太のまま
  または縦に割り裂いたのを用いる 
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これがすべて農民の手によって発達進歩した経過を考慮すると、
 全く地域に根ざし地域の特徴を生かした構造物 
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一階部分の軸部他地域との違いがあり、
  同じ集落内でも多少の相違はあるそうな 
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建築儀礼生産生業暮し方など様々な村風習など集落共同社会の中での
合掌造りは、人間の暮らしと深く係ってくる現れなんだね 
イメージ 29
昭和初期の自動車道開通後は往来筋からはずれ、自動車道の閉鎖される冬期だけの交通路になった。それも昭和45年(1970)にかの有名な峠雪道を往復した郵便逓送隊の廃止となり、ついに交通路線に位置しなくなってしまった。
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・・なんともいい風景だなぁ 
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地形は、北西から南東へかけてゆるやかな傾斜をつくり、標高380m~420mの段状平坦地の集落。後背の山地は急に切り立った岩壁になっていて、
古代の大きな地滑りによる段丘台地、地表の所々に岩石が頭を覗かせている
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現在の戸数や人口は昔に比べると極めて少ない。
養蚕製糸・製紙・製炭の主要産業の廃退と高度成長期の都市部への人口流出による過疎化現象だが、近年は道路網が整備され観光産業の発展で、
相倉集落を訪れる観光客が多くなり活気が甦ってきたそうな・・
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天正年間に建設されたと伝えられており、戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様子を示すなど、多くの古風、古式の遺構
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http://www.murakamike.jp/image/history/title_kayaku.gif

塩硝といわれる火薬原料の生産地として加賀藩
重要な役割を担っていたのが五箇山である。
藩にとっては火薬原料の製造は軍事機密となり、
幕府や他藩の目をのがれるのに、山深い秘境の地の五箇山は、
豊富な塩硝を製造するための好条件であった。
300年以上にわたって続いた塩硝製造は、水田のない土地柄ゆえに
五箇山全戸で製造に携わる一大産業となり、質量ともに
全国随一であったと云われてる
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2016 北海道ツー 5日目 ④ 小樽: 北の古き良き街 おやじ二人で そぞろ歩き 色気より勿論・食い気 ^^! ブログ&動画

前回
 
2016.8.2
折角なので、小樽歴史的建造物 が、観光資源として見直しされ
観光都市として脚光を浴びるようになった街中へ・・
北海道商都として栄えた小樽を感じさせる、レトロな建造物に出会うため
小樽っ子」気分で、「坂のまち、小樽」を
少し歩いてみよう 
 
動画編
 
 
タイムライン
 
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                 小樽憲章 大正11年8月28日制定
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15:45 
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イメージ 4
小樽は、北海道歴史文化経済大きく貢献した街
明治時代には国際貿易港にも指定され、日本でも指折りの企業や大手銀行が軒をつらね、大変な繁栄ぶりでした 
このため、鰊(ニシン)漁で財をなした親方の鰊御殿や、世界の相場で大儲けした
商人実業家が建てた大邸宅など、豪商たちにより、たくさんの文化的遺産
残されています 
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小樽商人気宇の大きさを味わうことができる、ロマン溢れる街並み 
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小樽は、海から山へせり上がった地形をしているため、多くの坂があります
住民は、昔から日に何度も坂を上り下りしながら、生活しています 
つま先上がりの急な坂を一歩一歩踏みしめながら上り切って、
ほっと振り返ると、
青い海にフェリー、対岸にかすむ増毛連山の絶景が目に飛び込んできます 
 
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・・大したことなくって良かったな 
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見晴らし坂上
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小樽市指定歴史的建造物 第71号 板谷
  海運業などで財をなした板谷宮吉の邸宅を利用している
 
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16:40
樽市では魅力あるまちづくりをすすめるために、市内を八つの地区に分け、
それぞれの地区を代表する景観を八つ選びだし、市内全体で64景(8地区×8景)
小樽八区八景として選定
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2016 北海道ツー 5日目 ④ 小樽:北の古き良き街 おやじ二人で そぞろ歩き 色気より勿論・食い気 ^^!

前回

2016.8.2
折角なので、小樽歴史的建造物 が、観光資源として見直しされ
観光都市として脚光を浴びるようになった街中へ・・
北海道商都として栄えた小樽を感じさせる、レトロな建造物に出会うため
小樽っ子」気分で、「坂のまち、小樽」を
少し歩いてみよう 

動画編


タイムライン

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                 小樽憲章 大正11年8月28日制定
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15:45 
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小樽は、北海道歴史文化経済大きく貢献した街
明治時代には国際貿易港にも指定され、日本でも指折りの企業や大手銀行が軒をつらね、大変な繁栄ぶりでした 
このため、鰊(ニシン)漁で財をなした親方の鰊御殿や、世界の相場で大儲けした
商人実業家が建てた大邸宅など、豪商たちにより、たくさんの文化的遺産
残されています 
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小樽商人気宇の大きさを味わうことができる、ロマン溢れる街並み 
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小樽は、海から山へせり上がった地形をしているため、多くの坂があります
住民は、昔から日に何度も坂を上り下りしながら、生活しています 
つま先上がりの急な坂を一歩一歩踏みしめながら上り切って、
ほっと振り返ると、
青い海にフェリー、対岸にかすむ増毛連山の絶景が目に飛び込んできます 

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・・大したことなくって良かったな 
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見晴らし坂上
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小樽市指定歴史的建造物 第71号 板谷
  海運業などで財をなした板谷宮吉の邸宅を利用している

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樽市では魅力あるまちづくりをすすめるために、市内を八つの地区に分け、
それぞれの地区を代表する景観を八つ選びだし、市内全体で64景(8地区×8景)
小樽八区八景として選定
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次回

早春の箱根・伊豆ツー ② 旧東海道  箱根八里の七曲り橿木坂上 甘酒茶屋と忠臣蔵の秘話 嬉し恥ずかし記念撮影 ^^! ブログ&動画 

前回

早春の箱根・伊豆ツー ① 旧東海道 畑宿寄木細工と一里塚 箱根八里の七曲り・まさかの橿木坂 甘酒茶屋で一服 ^^!

 

2017.2.25

何度となく訪れる箱根旧東海道甘酒茶屋に寄ったのは初めて 

13代続く老舗に代々引き継がれた米麹だけの甘さを味わった

そして忠臣蔵秘話の真実が、明らかに 

 

動画編

 

タイムライン

 

 

 

 

箱根八里

 

箱根路は、小田原から箱根峠までの東坂が4里10町(17km)、

箱根峠から三島までの西坂が3里20町(14km)、

合せて約8里(31km)あるところから箱根八里と呼ばれる

 

 

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」

と唄われたように、箱根八里大井川と並ぶ東海道の二大難所

中でも畑宿から箱根峠に至る上りが最大の難所だった 

 

・・箱根越えは、8里(32Km) 1日かかったそうな 

 

文政年間:江戸幕府仁孝天皇は、1817年(文化14)将軍は徳川家斉 (11代)

箱根八里には急坂を越えるため、「間の村(あいのむら)にある茶屋以外

にも坂の上下などに人馬が一服できる立場茶屋が設置されていた。

江戸時代後期の箱根東坂には、9ヵ所に13棟の立場小屋があったが、

現在は此処のみ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 




 

 

 

 

仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら)

人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、赤穂事件を題材としたもの

 

 

 

大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。本姓安倍氏家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、

俳諧にも事績を残した・・

 逸 話

大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が

「馬に乗れ」とからんできた。忠雄は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、

その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに忠雄がいたことを知った団蔵は

己を恥じて出家の上、忠雄を弔ったという

大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。

しかし、これらは後世の創作といわれている 

東海道五十三次 

東海道五街道*のひとつで、江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都三条大橋に至る約500kmの街道である。幕府はこの沿道を総て譜代大名の領地とし、

53の宿駅(しゅくえき)を設けた。

この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重葛飾北斎らの絵は有名である

 

五街道東海道中山道日光街道甲州街道奥州街道

 

この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重葛飾北斎らの絵は有名である

継飛脚幕府の公文書を無料でリレー運送するもので、

一人が黒漆塗りの御状箱をかつぎ、他の一人が肩代わりとして

夜は高張提灯を持って500kmを二日で走った  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PS
此方は、御坂峠の「天下茶屋

秋の旧甲州&甲斐路ツー いざ御坂峠から絶景の天下茶屋へ ^^!

                                                                            

 

 

 
 

早春の箱根・伊豆ツー ② 旧東海道  箱根八里の七曲り橿木坂上 甘酒茶屋と忠臣蔵の秘話 嬉し恥ずかし記念撮影 ^^!

前回

2017.2.26
何度となく訪れる箱根旧東海道甘酒茶屋に寄ったのは初めて 
13代続く老舗に代々引き継がれた米麹だけの甘さを味わった
そして忠臣蔵秘話の真実が、明らかに 

動画編

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箱根八里
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箱根路は、小田原から箱根峠までの東坂が4里10町(17km)、
箱根峠から三島までの西坂が3里20町(14km)、
合せて約8里(31km)あるところから箱根八里と呼ばれる

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 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」
と唄われたように、箱根八里大井川と並ぶ東海道の二大難所
中でも畑宿から箱根峠に至る上りが最大の難所だった 

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・・箱根越えは、8里(32Km) 1日かかったそうな 
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文政年間:江戸幕府仁孝天皇は、1817年(文化14)将軍は徳川家斉 (11代)
箱根八里には急坂を越えるため、「間の村(あいのむら)にある茶屋以外
にも坂の上下などに人馬が一服できる立場茶屋が設置されていた。
江戸時代後期の箱根東坂には、9ヵ所に13棟の立場小屋があったが、
現在は此処のみ 
 
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仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら)
人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、赤穂事件を題材としたもの
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大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。本姓安倍氏家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、
俳諧にも事績を残した・・
大高忠雄江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子
馬に乗れ」とからんできた。忠雄は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、
その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに忠雄がいたことを知った団蔵は
己を恥じて出家の上、忠雄を弔ったという
大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。
しかし、これらは後世の創作といわれている 
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こんな所にも忠臣蔵の逸話あったんですよ 


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東海道五街道*のひとつで、江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都三条大橋に至る約500kmの街道である。幕府はこの沿道を総て譜代大名の領地とし、
53の宿駅(しゅくえき)を設けた。
この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重葛飾北斎らの絵は有名である
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この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重葛飾北斎らの絵は有名である
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継飛脚幕府の公文書を無料でリレー運送するもので、
一人が黒漆塗りの御状箱をかつぎ、他の一人が肩代わりとして
夜は高張提灯を持って500kmを二日で走った  

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PS
此方は、御坂峠の「天下茶屋